上野日記

自分が主人公の小さな物語

重松清の『きみ去りしのち』を読んだ

重松清の『きみ去りしのち』を読んだ。2010年に文藝春秋より刊行された、長編小説(連作短編集かも)だ。

1歳になったばかりの息子がある朝目覚めると息を引き取っていた。夫婦は、「なぜ…」と「もしも…」を繰り返し、そして自分達を責めつづけ、悔やむ。夜眠れなくなった夫は小さな旅に出ることにした。
旅の前に、10年前に分かれた前妻に友人を介し会いたいと連絡をするが、待ち合わせ場所に現れたのは15歳になった自分の娘だった。娘は彼(実の父親)を「セキネさん」と苗字で呼ぶ。そして彼の小さな旅についていきたいという。別れた前妻は癌を患っていた。
青森・恐山(小児病棟で働く女医)、北海道・奥尻(津波で夫を亡くした母娘)、北海道・知床(息子を亡くした老夫婦)、新婚旅行(ハワイ)の思い出、熊本・阿蘇(余命を宣告された前妻との再会)、奈良の山間(事情で親子暮らせない子供を預かる老婆)、島根・出雲(訳ありのタクシードライバ)、沖縄・与那国島(前妻との最後の別れ)、長崎・島原(前妻と息子のための精霊流し)の9章からなる旅が描かれている。そこで出会う人たちの「生き方」にふれ、そして「生」と「死」について考えさせられる。

男性が旅先で出会った人たちは大切な人の死を乗り越えて力強く生きている。ただ、その悲しい別れは決して忘れることがない。母の死を受け入れた娘はたくましく生きていくのだろう。息子を失った夫婦も少しずつ一歩ずつ前に進めるのかもしれない。


以下の文章を読んでなるほどねと思ってしまった。

男は子どもを産まない。新しい命を自分の体に宿す力を持たない。わが子を亡くす悲しみも、わが子をのこして死ななければならない悲しみも、いや、そもそも「死」や「命」に寄せる思いそのものが、男より女のほうがずっと深いのかもしれない。

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