上野日記

自分が主人公の小さな物語

遠藤周作の『沈黙』を読んだ

遠藤周作の『沈黙』を読んだ。1966年に新潮社から刊行され、同年第2回谷崎潤一郎賞を受賞した歴史小説(17世紀の日本の史実・歴史文書に基づいた創作)だ。先日読んだ『海と毒薬』と同様に遠藤周作の代表作に挙げられている。私が図書館から借りてきた本は、1972(昭和47)年6月30日37刷に発行された本で、紙の手触り感も歴史を感じさせられた。

キリスト教が弾圧されていた江戸時代初期に布教にきたポルトガル人の祭司の苦悩(神と信仰の意義)を描いている。長崎に着いた祭司は密告され役人に捕らえられる。拷問を受けるのは日本人のキリスト教信者たちで、祭司は棄教を迫られる。こんなに祈っているのに「神は沈黙」し続ける。そして「本当に神は存在するのか」と苦しむ。そして、……「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」と。……うーん。
前半部分にこのような文章があった。「なにも変わらぬ。だがあなたならこう言われるでしょう。それらの死は決して無意味ではないと。それはやがて強化の礎となる石だったのだと。そして、主は我々がそれを越えられぬような試練は決して与え給わぬと」。この文章を読んだ時、大沢たかお綾瀬はるか中谷美紀が出演した『仁-JIN-』を思い出した。そのドラマでの「神は乗り越えられる試練しか与えない」という台詞が有名だ。似ている。もしかしらた聖書にでも書かれている言葉なのだろうか。ちょっと気になった。『仁-JIN-』は原作の漫画は読んだことがないが、テレビドラマは毎週楽しみに観ていた。もう少ししたら「完結編」が放送される予定で、こちらも楽しみだ。

そして、拷問されている信者の声に耐えられず祭司は「我々があなたのために作った村さえ、あなたは焼かれるまま放っておいたのか。人々が追い払われる時も、あなたは彼等に勇気を与えず、この闇のようにただ黙っておられたのですか。なぜ。そのなぜかという理由だけでも、教えて下さい。私たちはあなたの試練のために癩病(らいびょう)にされたヨブのように強い人間ではない。ヨブは聖者ですが、信徒たちはまずしい弱い人間に過ぎないのではありませぬか。試練にも耐える限度があります。それ以上の苦しみをもうお与え下さいますな」と神に懇願する。辛いシーンだ。遠藤周作は「弱い神」という考えに到達したらしいが、これは理解できない。それでも神は存在するのだろうか……、信じる者は救われるのだろうか……、と思った。

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