上野日記

自分が主人公の小さな物語

重松清の『カシオペアの丘で』を読んだ

重松清の『カシオペアの丘で』を読んだ。2007年に講談社より刊行された長編小説だ。以前に読んだ『かあちゃん』の「文庫版のためのあとがき」によると、作者は「ゆるす/ゆるされる」という人間関係を描いてみたかった。裏を返せば「ゆるされない/ゆるさない」関係だと。本書と『かあちゃん』および『十字架』で「ゆるすことについての三部作」としているらしく、いつか読んでみたいと思っていた。ただ、重松氏の作品は内容が重たいので少し躊躇していた面もあり、なかなか手を出せなかった。

以下の概要は裏表紙より:

丘の上の遊園地は、俺たちの夢だった―。肺の悪性腫瘍を告知された三十九歳の秋、俊介は二度と帰らないと決めていたふるさとへ向かう。そこには、かつて傷つけてしまった友がいる。初恋の人がいる。「王」と呼ばれた祖父がいる。満天の星がまたたくカシオペアの丘で、再会と贖罪の物語が、静かに始まる。
 二十九年ぶりに帰ったふるさとで、病魔は突然暴れ始めた。幼なじみたち、妻と息子、そして新たに出会った人々に支えられて、俊介は封印していた過去の痛みと少しずつ向きあい始める。消えてゆく命、断ち切られた命、生まれなかった命、さらにこれからも生きてゆく命が織りなす、あたたかい涙があふれる交響楽。

「ゆるす」か「ゆるされる」か、そして「ゆるされない」か「ゆるさない」か。それぞれの立場で人生が変わる。ゆるされない人生はつらいのか、ゆるさない人生は寂しいのか…。命や人生について考えさせられた。

以下は本書を読んでいて心に残った文章を列挙したものだ。前後の文章や全体の文脈や流れを知らないとあまり感動はないが、ここに残して起きたい。

  • 人間は前ばっかり向いているわけにはいかないんだよ。下を向いたり後ろを振り返ったりするのが人間だと思うんだ
  • 何分乗っていても、何周しても、メリーゴーラウンドの木馬はどこにも行けない。遠ざかった後姿が見えなくなっても、やがてまた戻ってくる。ひとの人生はどうなのだろう。歳月や時間をただ前に進みつづけて、過去に背中を向けたまま、いつか長い旅を終えてしまうものなのだろうか。一度だけ戻ってきて、それから遠くへと旅立っていく、そんな人生を、もしも神さまが気まぐれに用意してくれているのなら、俊介に与えてあげてほしい
  • ゆるしたい相手を決してゆるせずに生きていくひとと、ゆるされたい相手に決してゆるしてもらえずに生きていくひとは、どちらが悲しいのだろう
  • 私が見たいのは、あなたが、あなた自身をゆるす瞬間なのです
  • もうすぐ終わる命がある。それを見送る命がある。断ち切られた命がある。さまよう命がある。悔やみつづける命がある。重い荷物を背負った命がある。静かに消えた命もある。その命が消えたあとの暗闇をじっと見つめてきた命がある。そこから目をそらしてしまった命もある。身を寄せ合う命がある。孤独な命もある。満たされた命はない。℃のいのちも傷つき、削られ、それでも夜空に星は光つづける
  • くっつきすぎると息が詰まる。同じ方向を向いて、同じものを見ていると、相手のことが逆によくわからなくなる。ちょっとだけ離れて、好きなひとを見つめる、見守るっていう愛し方だってあると思うんだ
  • 神さまって、人生を一度しかやらせてくれないかわりに、誰のどんな人生にも意味があるようにしてくれたのかもね
  • わたし、ゆるすほうの苦しみとか悲しみって、初めて知りました
  • 誰かをゆるさずに生きていくっていうのは、そういうことなんだ。心の底ではゆるしてやりたい相手を、ずっとゆるさないまま生きていくのは、寂しいことだろう? 誰かを憎んだり恨んだりするのを支えに生きるのって、それはやっぱり寂しいだろう?
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