上野日記

自分が主人公の小さな物語

村上春樹の『国境の南、太陽の西』を読んだ

村上春樹の『国境の南、太陽の西』を読んだ。1992年に講談社から刊行された長編小説だ。「『ねじまき鳥クロニクル』を執筆し、第1稿を推敲する際に削った部分が元になり、そこに更に加筆する形で書かれている」らしい。

主人公<僕>の幼少期から37歳までの話が綴られている。彼は「一人っ子」だということに劣等感のようなものを感じていた。小学生の時に転校してきた綺麗な少女<島本さん>との淡い想い出そして別れ、……<島本さん>も一人っ子だった。高校時代の彼女との悲しい別れ、大学、社会人、結婚、バーの経営者として裕福で安定した成果を得ることができた。
そんな中、<島本さん>と偶然に再開し、心が揺れていく。そして「一人っ子」である自分が不完全なものと悩み、そして自分自身の「存在」の意味を考える。<島本さん>がいなくなって、<僕>が辿り着いた答えは以下のようなものだったのかもしれない。

そこには中間というものは存在しない。中間的なものが存在しないところには、中間というものもまた存在しない。国境の南にはたぶん存在するかもしれない。太陽の西にはたぶん存在しないかもしれない。

<島本さん>と再会した時以下のような会話があった。二人とも子どもの頃から読書がとても好きだった。<島本さん>の小説は読んでないのか、新しい小説はどうして読まないのかに対する<僕>の答えは、

たぶん、がっかりするのが嫌だからだろうね。つまらない本を読むと、時間を無駄に費やしてしまったような気がするんだ。そしてすごくがっかりする。昔はそうじゃなかった。時間はいっぱいあったし、つまらないものを読んだなと思っても、そこから何かしらは得るものはあったような気がする。それなりにね。でも今は違う。ただ単に時間を損したと思うだけだよ。年をとったということかもしれない。

と。でも<島本さん>は違っていた。君は読んでいるかの<僕>の問いに対し、

ええ、いつも読んでいるわよ。新しいものも古いものも。小説も、小説じゃないものも。つまらないものも、つまらなくないものも。あなたとは逆に、私はきっとただ本を読んでいる時間をつぶしていくのが好きなのね

と答える。同じように年をとった二人は「時間」に対する考えも変わってきていた。子どもの頃から読書嫌いだった私は、今でも読むのは遅い、……時間がかかるのだ。たしかに、そんなに時間をかけて読んだのに、つまらなかったら「損をした」と思うときもある。わざわざ単行本を買うよりは、ちょっと待って文庫本を買う方だ。図書館で本を借りると「期限」を決められているので、なんとなく嫌いだった。最近は図書館の本しか読んでないが、借りるのはタダと思っていてもつまらない本は読みたくないので、いつも迷いながら本を探している。


昨日(3/20)の大河ドラマ江〜姫たちの戦国〜』は「賤ヶ岳の戦い」だった。お市の方と娘たちとの別れのシーンで、お市の方が次女の初に対して「三人の中で姉も妹も持っておるのはそなただけじゃ」という台詞があった。「おぉ、なるほどね」と思わずつぶやいてしまった。私も三人兄妹だが、そんな考え方はしたことがなかった。一番上だからだろうが。そして、お市の方が「二人の間に何かあったら絆となってつなぎとめよ」と続けた。うーん、大阪冬の陣・夏の陣で、淀殿(茶々)と江の間を取り持つことになる「伏線」を言いたかったのね、とちょっと笑ってしまった。

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