上野日記

自分が主人公の小さな物語

ヘッセの『車輪の下で』を読んだ

松永美穂(1958-)訳、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse)の『車輪の下で』(Unterm Rad)を読んだ。本書は、光文社古典新訳文庫から2007年に発行されたものだ。光文社は、「いま、息をしている言葉で」をキャッチコピーに、古典作品を新訳で刊行している。

何故これを読もうかと思ったのか、それは『ノルウェイの森』でワタナベが読んでいたから、……ただそれだけだ。ヘルマン・ヘッセの名前は知っていたが作品は読んだことがなかったし、1946年に『ガラス玉演戯』などの作品でノーベル文学賞を受賞したことも知らなかった。
本小説は、ヘッセの自伝的小説と言われていて、将来を嘱望された少年がそれに応えきれず、生き方への疑問、挫折感や絶望感を抱いていく。ヘッセ自身も神学校時代に不眠症やノイローゼになり神学校を退学し、高校に転校するも、その高校も辞めてしまう。

新訳という事だけあってとても読みやすかった。翻訳者の松永美穂さんは、私より2歳年上で、高校受験をしたばかりの中学生の頃にこの小説を読んでいる。そのころ読んだ感想と、それ以降何度か読みなおして、そして翻訳を機に再度読み直してみると、視点が変わっていて感じ方も変わっていたそうだ。私も若い時に読んでいたら、違った感想を持っただろうか……

何故、『車輪の下』というタイトルにしたのか、「訳者あとがき」にその理由が書いてあった。

新訳にあたって、タイトルを『車輪の下で』にしてみた。これまでも『車輪の下に』というバージョンがあったけれど、既訳の大部分は『車輪の下』とうタイトルである。「で」という助詞を加えることで、運命の車輪の下で悶え苦しむハンスの、その闘いぶりが現在進行形で伝わるのではないか、と思った。ささやかな試みである。

「現在進行形」かぁ、ハンス少年は運命の車輪から逃れることができなかったんだね。


少年ハンスは誰にも相談できずにひとりで悩んでいる。誰かに相談することができたら、彼の運命も変わっていただろうか? ま、小説に対して仮定の話を持ち出しても意味がないが。私自身も高校の頃から色々な悩みや選択を誰にも相談しなかったような気がする。出来なかったといったほうが正しいかもしれない。大学進路や就職など、自分で決めてから親に話を付けたと思う。親に話しても一緒だと思っていたのか、少し卑屈になっていたのか、昔の自分自身を分析することもできない。何故だろう……

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