上野日記

自分が主人公の小さな物語

フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んだ

野崎孝(1917-1995)訳、フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald)の『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby)を読んだ。1925年に出版された小説で、映画化も多数されている。1974年にロバート・レッドフォード主演による『華麗なるギャツビー』はアカデミー賞衣装デザイン、編曲賞を受賞したらしい。Wikipediaによれば、「フィッツジェラルドの代表作であると同時に、現在ではアメリカ文学を代表する作品の一つであると評価されており、Modern Libraryの発表した20世紀最高の小説では2位にランクされている」らしい。

華麗なるギャツビー』はどこかで聞いたことはあったような気もするが、小説はもちろん、映画もたぶん観ていないと思う。「たぶん」と書いたのはひょっとしたら観たことがあるかもしれない、忘れているだけということも含んでいる。
この小説を読もうと思ったのは、『ノルウェイの森』で主人公のワタナベ君が絶賛していたからだ。村上春樹自信も最も影響を受けた作品のひとつに挙げているらしく、自身でも翻訳本を2006年に発行している。野崎孝の訳も定評はあるらしいが、文章が現代風ではないのでちょっと読みづらかった。

この本が何故「20世紀最高の小説では2位にランク」されているのかがよくわからない。読んでいてそれほど面白いとも思えなかった。ただ、野崎孝自身が本の最後に「解説」として以下のようなことを書いている。

……ギャツビーがニック・キャラウェイと共に作者の分身であることはいうまでもない。
 こうして作者が、分裂しながら互いに牽引し競合し合う内面の二要素を、それぞれ二人の分身に仮託し、一方を語り手として設定したところにこの小説の成功の大きな要因があることは、多くの評者が一様に言っている通りである。これによって作者は、ギャツビーの生涯を一つ屈折した視点から描く自由を獲得出来たばかりでなく、ギャツビーのドラマに参加するニック自身の行動や、そのときどきの感じ方や考え方、要するにニックという存在の全体を通して、この作品に複雑で微妙な陰影を与え、重層的な意味を盛り込むことに成功した。

うーん、なるほどねぇ〜。修行が足りんなぁ……


ニューヨーク郊外のロング・アイランドが舞台になっている。ロング・アイランドには行ったことはないが、ニューヨークには2回ほど遊びに行ったことがあるな、とこの小説を読みながら思い出していた。ボストンに赴任していたころの20年前で、1回は会社の同僚たちとカナダの帰りに飛行機で、もう1回は自分一人の車で高校時代の友達がニューヨークに赴任中だったので遊びに行った。9.11の同時多発テロで破壊された「ワールドトレードセンター、WTC」にものぼったし、たしかまだ規制されている自由の女神の展望台にものぼったのを思い出した。観光客が一通り行くであろう場所は訪れることが出来たかなと思っている。

© 2002-2017 Shuichi Ueno